The derivation of the title
1077年,ドイツ王(のち神聖ローマ皇帝)ハインリヒ4世がローマ教皇グレゴリウス7世に屈服し赦免を得た。
両者の争いは1076年初頭,破門・廃位宣言の応酬で開始されたが,かねてから歴代諸皇帝の集権政策に不満を抱くドイツ諸侯は,王が教皇から破門を宣せられると,これを王権抑制の好機と考え,翌年2月2日までに破門が解かれぬ場合は王を廃位すると決議した。
王はこの危機を回避するため,77年1月末,北イタリアのアペニノ山中のカノッサ城に滞在する教皇を訪ね,雪中3日間悔悛の衣をまとい裸足で城門の前にたたずんで教皇に哀願し,ようやく破門を解いてもらった。
赦免を得た王は攻勢に転じ,その後事態は王に有利に展開した。しかしこの事件は,皇帝権がローマの至上権に屈し,王が諸侯との争いに教皇を仲裁者と認めたことを示し,教皇権の勝利を意味する。この事件が〈カノッサの屈辱〉と呼ばれるのもそのためである。
Today, "Canossa" refers to an act of penance or submission.
in German: "Gang nach Canossa"(カノッサへの歩行),
in Italian: "Umiliazione di Canossa"(カノッサの屈辱),
in French: "Pénitence de Canossa"(カノッサの屈辱),
in Danish, Norwegian and Swedish: "Canossavandring" or "Kanossagang"(カノッサの地),
in Spanish: "Paseo de Canossa" (カノッサへの道)
in English: "Walk to Canossa"(カノッサへの歩行)
ある側面から見れば「屈辱」であろうが、客観的視点からすればそうとは言えないかも知れない。
物事は多面性を持ち、時として人は自分の都合の良い面だけを見たがるものである。
立脚点を明確にした上で判断と決断を下すべきではないだろうか。
